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GRAND SEIKO / 4520-8000 (sold)

1960年(昭和35年)に諏訪精工舎から発表された国産腕時計の最高峰モデルであるグランドセイコー。こちらは通称45GSと呼ばれる手巻きのハイビートモデル、1968年10月に製造された個体です。グランドセイコーは「スイス製腕時計にも負けない精度の国産腕時計を生み出す」という命題のもと徹底的に精度を追及し、スイス・クロノメーター規格に準拠した独自の社内検定制度を設けるほどでした。初代グランドセイコーが発表された後もムーブメントの改良を重ねていき、この45GSは当時のトレンドでもあった高振動(ハイビート)ムーブメントを搭載したモデルです。10振動という高振動化により等時性に優れ、姿勢差、外乱の影響などに対してもより安定した高精度を実現しています。もうひとつ特筆すべきなのが44GSによって確立されたセイコー独自のデザイン理念である「セイコースタイル」を採用した外装デザインです。日本特有の美意識について見つめ直し、和の様式である「屏風」や「障子」などが歪みや捻じれのない平面で構成されていることからインスピレーションを受けて生み出されたデザインは、ケース、ダイアル、針全てにわたって平面を積極的に取り入れ、面と面のつなぎ目のエッジをしっかりと際立たせることでシャープな印象をつくりだしています。また「ザラツ研磨」という特殊な研磨方法を取り入れることにより極めて歪み少ない平面が実現し、見る角度により時計全体に美しい光と影の陰影が生まれます。


GRAND SEIKO

1881年(明治14年)、服部金太郎が現在のセイコーの前身となる服部時計店を東京の京橋采女町(現在の銀座)に創業する。当時は輸入時計の卸しや中古時計の修繕・販売事業を行っていた。服部時計店の創業時から時計の国産化は大きな目標であった服部金太郎は1892年(明治25年)に時計製造工場として精工舎を設立し掛け時計の製造を開始、その後1913年(大正2年)には国産初の腕時計「ローレル」を完成させる。国産腕時計メーカーの先駆者となった精工舎はさらに事業を拡大していき、1937年(昭和12年)には生産増強を図るために腕時計部門を切り離し東京の亀戸に第二精工舎(現セイコーインスツル)を設立した。その2年後には同じく亀戸に本社工場も竣工するなど順風満帆に思われた道のりであったが、太平洋戦争の影響により民間用時計の製造は年を追って減少していき、終戦の年である1945年(昭和20年)にはほぼ生産中止に近い状態にまでなってしまった。戦災により亀戸工場は壊滅的な被害を受けたため戦後は疎開先であった桐生、富山、仙台、諏訪の工場で生産を再開することとなる。1949年(昭和24年)に諏訪を除く各工場が撤収され亀戸工場を中心とした生産体制への復興を図ることとなるが、諏訪の協力工場のひとつであった大和工業はその後も腕時計の製造を継続し、1959年(昭和34年)には第二精工舎から工場事業を譲受して社名を諏訪精工舎(現セイコーエプソン)に変更した。亀戸と諏訪、ふたつの工場は競うように新モデルを開発し諏訪精工舎からは1950年(昭和25年)に戦後のセイコーの腕時計の雛形とも言える中三針モデル「スーパー」や1956年(昭和31年)にはセイコー初の独自設計による腕時計「マーベル」などが誕生。亀戸の第二精工舎からは1955年(昭和30年)に諏訪で開発されたスーパーの改良型モデルである「ユニーク」や、1958年(昭和33年)には後のキングセイコーにも繋がる礎ともなった第二精工舎初の独自設計モデル「クロノス」などの傑作モデルが世に送り出された。1960年(昭和35年)、「世界に挑戦する国産最高級の腕時計をつくる」という志のもと諏訪精工舎からグランドセイコーが発表される。国産では初めてスイス・クロノメーター検査基準優秀級規格に準拠したモデルとして社内検定を合格した歩度証明書付きで発売された。また、1967年(昭和42年)に発表された44GSでは「燦然と輝く腕時計」を実現するべく日本特有の美意識を原点として編み出された独自のデザイン理念「セイコースタイル」を確立しデザイン面で現在のグランドセイコーに大きな功績を残すものとなった。諏訪精工舎からグランドセイコーが発表された翌年の1961年(昭和36年)、第二精工舎からもクロノメーター級の精度を目指したハイエンドモデルである「キングセイコー」が発表され、グランドセイコーとともに国産腕時計の最高峰モデルとして双璧をなすこととなる。


GRAND SEIKO / 4520-8000 sold

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